山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 10/28

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の、専門学校には専門学校の役割が相通じている。山川は帝大には帝大学昇格自体に反対していた事実とも専総裁だった)、また専門学校の大ほど積極的でなく(山川は当時も明昇格を図った明専に対し、山川がさから官立....

の、専門学校には専門学校の役割が相通じている。山川は帝大には帝大学昇格自体に反対していた事実とも専総裁だった)、また専門学校の大ほど積極的でなく(山川は当時も明昇格を図った明専に対し、山川がさから官立への移管に際して大学へのある。このことは、大正後年、私立めて合理的な精神を持った人物像で九州帝国大学創立の勅令(明治43年)九州帝国大学は明治43年12月の勅令第448号をもって創立された(翌年1月1日施行)照)。ついては、後掲の藤岡、陳論稿を参る(以上、山川の思想や「明専」に山川流の高等教育観があったのであの高等教育・大学制度を踏まえた、いた。そこには前述した明治期からの高等教育制度が成立すると考えてあり、この両輪が揃うことで我が国九州大学の開設を報じる『福岡日日新聞』(明治43年12月26日付)医科大学、工科大学の設置運動を積極的に唱道した『福岡日日新聞』は、九州帝国大学が開設される1月1日を目前にした明治43年12月26日、九州大学への期待と希望を「論説」として1面に掲載した。執筆は菊竹淳(六鼓)である室長教授折田悦郎)(九州大学大学文書館大学史資料る。新しい時代に向けて船出したのであこうして、九州帝大は大正という『五十年史』135頁)。岡日日新聞」大正2年5月22日付。前途は誠に結構です」と述べた(「福ばしく感じました(中略)当大学のを思ふの厚きを察し得て私は甚だ喜継いだ真野は「諸君の御熱誠当大学分を自覚せられよ」と訓辞、引きは甚だ喜ぶ所で(中略)「学生の本(真野文二〈引用者注〉)を得たこと子人にして而も敏腕家なる後継者長の歓送迎会が開かれた。山川は「君年5月、医科大学図書館で新旧両総べきであろう。大正2(1913)山川はそれを見事に果たしたと言う取る〝重石〟としての役割にあり、の任務は、医・工両科のバランスをた。その意味からすれば彼の九大で山川の九大時代は短期間であっ「重石」の責任果たす10