山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 11/28

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11■九州帝国大学初代総長・山川健次郎「国家のための学問」明治44(1911)年、九州帝国大学第1回入学式で、総長山川健次郎は「学を励み、智を研き、国家の発達を助くる人と自己を為すも、亦諸子の国家に対する....

11■九州帝国大学初代総長・山川健次郎「国家のための学問」明治44(1911)年、九州帝国大学第1回入学式で、総長山川健次郎は「学を励み、智を研き、国家の発達を助くる人と自己を為すも、亦諸子の国家に対する義務である」と訓示した。この訓示に見られるように、山川の学問に関する思想は、「国家のための学問」というものであった。山川がこのような国家主義的な学問観を抱くことになったのは、何よりも彼の少年時代の経験が影響している。山川は会津藩の家老の家に生まれ、戊辰戦争では会津若松城に籠城して官軍と戦った。しかし結局会津藩は敗北し、「朝敵」として所領を没収されることとなる。このような敗戦と「亡国」の経験を山川はしていた。そしてまた、他の明治人と同様に、欧米諸国に対する恐怖心を抱いていた。欧米列強が生存競争を展開する世界(山川は第1次世界大戦後の「国際協調」の時代にあってもこの世界観を変えていない)の中では、日本がいかに生き残っていくかが最重要の課題であり、学問もまた、その課題解決のために貢献せねばならないと山川は考えていた。こうしたところから、山川にとって学問とは、何よりも「国家のため」に行わねばならないものとなったのである。また、彼のアメリカ留学中の次のようなエピソードも見逃せない。山川がイェール大学で学んでいた明治7(1874)年、日本政府は増えすぎた留学生の大半を帰国させる方針をとり、山川にも帰国命令が出る。山川は何とかアメリカに残って学業を続けようとするが、日本政府から支給されていた学費等は打ち切られることになる。そこに助け船を出したのが、同級生の伯母である富豪であった。彼女は山川に学費を提供する条件として、「学業成就して本国に帰りたる後は、力の限り本国の為に尽力すべし」との証文を書くことを要求する。こうして山川は学業を継続することができ、学位を取得して明治8年帰国する。─「吾人は学問の独立を期す」に至極同意「士」の精神で、学に励み、智を研けアメリカ留学中の山川(2列目左端)西洋の機械文明の進歩に驚愕した山川は、物理学の研究を志し、イェール大学付属のシェフィールド理学校で学んだ国家のための学問と学問の自由