山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 13/28

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13■九州帝国大学初代総長・山川健次郎経済両学部の学生が山川に「吾人は学問の独立を期す」との宣言を提出したが、この宣言に山川は、「国法道徳の許す範囲にて」という条件を付けながらも、「至極同意」と回答して....

13■九州帝国大学初代総長・山川健次郎経済両学部の学生が山川に「吾人は学問の独立を期す」との宣言を提出したが、この宣言に山川は、「国法道徳の許す範囲にて」という条件を付けながらも、「至極同意」と回答している。学問の発展のためには学問の自由が保障されねばならない。そして学問の発展こそがさらなる修養の幅を広げることに資する。つまり、学問の自由は「士」をより完全なものにするために不可欠の前提であった。山川にとって学問とは、国家のためのものであると同時に、自由に行われねばならないものだったのである。(九州大学大学文書館百年史編集室准教授藤岡健太郎)狂信的な国家主義者たちとは全く異なり、学問の自由と独立を擁護する立場であった。このことをよく表すのが、大正8(1919)年から翌年にかけて起こった森戸事件への山川の対応である。この事件は、当時東大助教授であった森戸辰男の論文「クロポトキンの社会思想の研究」が、無政府共産主義思想の宣伝であるとして問題になったものである。事件は東大の右翼学生団体が森戸の論文を非難したところから始まったが、当時東大総長であった山川は、事を政治問題化させようとするこうした動きを苦々しく思っていたという。山川は森戸と直接会って話し、彼の思想的立場については認めたうえで、内容・表現に行き過ぎがあった旨の覚書を提出させることで事を収めようとした。しかし森戸はこれを拒否し、さらに司法省が森戸起訴に動き出したため、擁護は困難になった。結局森戸は起訴され有罪となり、免官となる。総長という山川の立場からすれば、思想的に正反対の立場にある森戸を見放すこともできたはずである。にもかかわらず、山川はむしろ森戸を擁護しようとしていたとも言える。また、この事件に対し、法・ることを指摘し、このことは東大・京大にもほとんど見られない美風だとして賞賛している。そしてこの学風は、今後も長く九大の学生が保存しなければならないことであると強調している。「武士道」「士君子道」に見られる普遍的な徳目を身に付けたうえで、さらに自ら積極的に専門の研究を深め、加えて幅広い知識を身に付けることで修養を広めて完全な「士」となること―これが山川にとっての人間の理想像であり、こうした人間になることを、新設された九大の学生に求めたのである。学問の自由と独立の擁護山川は国家主義者であり、マルクス主義はもとより、個人主義やコスモポリタニズムなども、日本を亡国に導くものとして批判している。しかし、昭和戦前期に大学を攻撃したであろうか。それは、専門を極め、さらに他分野の学問についても一通りの知識を有することである。特に九大のような総合大学では、さまざまな分野の教官・学生が集まり、自分の専門以外の分野との交流を行うことにより修養を広めることができると山川は言う。このこととの関わりで、同じ訓示の中で山川は、福岡医科大学(現在の九大医学部)には学生が自ら新しい研究に積極的に取り組む学風があ射撃訓練を受ける山川(中央伏臥し銃を構えている人物)山川は学生の軍事訓練を奨励しただけでなく、自らも訓練を受けた。大正4年に開催された東大の射撃大会には学生に混じって参加し、齢61才ながら好成績を挙げている「九大百年」の書は、世界的に活躍する書家の柿沼康二氏に揮毫していただきました。