山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 14/28

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14基礎科学の重視日本を豊かするには実学が欠かせない。しかし、物理、数学などの基礎科学を重視しなければ実学が適正に発展できない。山川は米国留学中にこれを認識し、当初予定していた土木工学から物理学に転じ、....

14基礎科学の重視日本を豊かするには実学が欠かせない。しかし、物理、数学などの基礎科学を重視しなければ実学が適正に発展できない。山川は米国留学中にこれを認識し、当初予定していた土木工学から物理学に転じ、帰国後日本人初の物理学教授となった。そして創設に尽力した九州帝国大学、私立明治専門学校において、彼はその理念を実践した。九州帝国大学創立時、一から作ったのは工科大学である。土木工学、機械工学、電気工学、応用化学、採鉱学、冶金学の6学科の他に、山川の方針で、明治44(1911)年開学と同時に数学および力学の講座が設けられた。同年9月、工科大学第1回生の入学とともに、数学、力学が開講された。その講師として、山川は後述の私立明治専門学校から同校教授桑木彧雄を呼んだ。桑木は、山川が東京帝国大学で教鞭を執った頃の弟子であり、アインシュタインと出会った最初の日本人そしていち早く日本に相対性理論を紹介した物理学者である。翌年には物理学、化学各1講座が置かれた。大正3(1914)年4月、桑木は九大に移った。同時に前述の3講座が統合され理科教室となり、昭和14(1939)年創設された理学部の端緒となった。私立明治専門学校(以下、明専と略す)は明治42(1909)年4月に開校し、日本最初の私立実業専門学校として知られている。創立者は筑豊の炭鉱王の一人である安川敬一郎である。山川は、安川の国の需要に応ずる学校を設立しようとする熱意に動かされ、学校創設の責務を引き受け、学科の構成から教員の確保まで心血を注いだ。山川が一手に作り上げた明専は彼の教育理念を完全に体現したと言える。他の官立専門学校が3年制であるが、明専はあえて4年制にし、工学の専門科目の他に基礎科目や徳育の側面に実をあげようとした。明専では数学、物理学、化学などの基礎科目は他校の1・5倍以上の時間をかけている。講義だけでなく、相当な時間数の実験をともなっていたからである。他校では単なる教養科目として位置づけられた物理学、化学などは、こうすることでしっかりとした基礎科学の教育という位置を与えられた。「士君子」の人材像白虎隊出身、最後の武士とも称された山川は、「武士道」を原点とする「士君子」の育成に心を砕いた。同じ「士君子」ではあるが、山川の中では帝国大学生と専門学校生と分けて考えた。新設の総合大学である九大においては、彼が期待したのは「完全な士」である。山川にとって、大学は「国家百般の事業の中心と為るべき人を養成する」教育機関である。その中で帝国大学生は国民から期待され、日本の未来を背負って朝野のすべての要職要務に就く存在である。将来、各分野におけるリーダーシップを執るという重大な責任を果たすには専門の学問を極めるだけでなく、他のすべてのことに対応できる知見を有すべ─広い教養と高い専門性を学生と直接交流、愛情を注ぐ山川健次郎の教育理念とその実践初代総長山川健次郎は九州帝国大学、東京帝国大学、京都帝国大学の総長のみならず、私立明治専門学校の総裁、旧制武蔵高等学校の校長をも歴任した。国作りは人作り、そう考えている山川は一教育者として明治、大正、昭和の3時代にわたって「富国」を支える人材の育成に情熱を燃やした。工科大学理科教室での物理実験をする学生たち(大正9年)