山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 16/28

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16○白虎隊の生き残り会津若松藩は幕末、藩主・松平容保が京都守護職に就き、徳川幕府の盾となって佐幕の姿勢を最後まで貫いた。ために、朝敵となり、江戸城無血開城の後、新政府軍の総攻撃を受ける。奥羽越列藩同盟....

16○白虎隊の生き残り会津若松藩は幕末、藩主・松平容保が京都守護職に就き、徳川幕府の盾となって佐幕の姿勢を最後まで貫いた。ために、朝敵となり、江戸城無血開城の後、新政府軍の総攻撃を受ける。奥羽越列藩同盟はこれを迎撃、奥羽地方一帯を戦場とする内戦が始まった。戊辰戦争である。16歳以上の少年で構成する白虎隊は、15歳の健次郎を会津若松城守備隊に回した。激戦に次ぐ激戦、白虎隊19人は飯盛山で自刃して果てた。兄山川浩が指揮を執る若松城籠城戦は、会津藩最後の戦いであり、健次郎にとって死を賭した戦いであった。一日約2000発の砲弾を撃ち込まれるなど、城は1カ月の激闘の末、落城(8月23日―9月22日)。戊辰戦争での会津藩の戦死者は3014人を数えた。健次郎は生き残ったものの「戊辰の賊」として猪苗代謹慎所に収容された。○薩長出身者に見出される敗軍の会津藩士とその家族は、極寒の青森・下北半島(斗南藩)に配置替え、不毛の「荒蕪の地」で飢えに直面する悲惨な状況に追いやられた。白虎隊から若松城守備に移されて生き延びた健次郎は、もうひとたび、恩情を得る。山川の才能を惜しんだ同藩の上層が健次郎をひそかに新潟・越後口に逃がしたのである。そこは長州出身の官軍参謀奥平謙輔がおり、前原一誠が越後府判事を務めていた。前原は後に重税に苦しむ民衆を見かね、中央政府の意向に反して税を半減させるなど温情ある施策をとり、罷免された人物である。会津城の引き渡しを通して、その人物を見込んだ奥平と前原のもとに健次郎を逃したのである。罷免された前原、奥平と共に健次郎は、東京へ移る。その後、前原らは「萩の乱」で刑死するが、代わって薩摩出身の江戸─明治─大正─昭和戊辰─日清─日露四つの時代、三つの戦争を生き抜き、「白虎隊」総長、大学の「自治と自由」築く山川健次郎とその時代米国・ペリー艦隊が浦賀に姿を現した1853年6月、幕末動乱の幕が開けた。翌年(1854)嘉永七年閏七月十七日、九州帝国大学、初代総長山川健次郎は会津藩(福島県会津若松市)家老職の三男に生まれた。15歳までの少年期は戊辰戦争、会津藩若松城の落城、降伏と、苦悩の歳月を重ねた。一転、新政府に選ばれて米国留学、イェール大学で物理学を学び帰国、東京大学の教官に就く。この青年期を経て、物理学者、大学のトップとなった。明治維新、近代国家への出発、そして日清、日露戦争と国運をかけた戦いの、緊迫した時代の中で「大学の自治と学問の自由」のため、そして九州帝国大学の創学のため渾身の努力を重ねた。「坂の上の雲」を見つめながら、幕末に生まれ、明治、大正、昭和の四時代、激動の中で、日本の高等教育の基盤を固めた気骨ある教育者、大学人として、畏敬の念を持たれた人物だった。砲弾が撃ち込まれ落城した会津若松城