山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 17/28

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17■九州帝国大学初代総長・山川健次郎川のジャパン号と米国から日本に行く船が太平洋上で、予定時間通りに出会い、郵便物を交換した。それを見た山川は攘夷気分を振り棄て「西欧科学」に学ぶ姿勢に一変する。心の鎖....

17■九州帝国大学初代総長・山川健次郎川のジャパン号と米国から日本に行く船が太平洋上で、予定時間通りに出会い、郵便物を交換した。それを見た山川は攘夷気分を振り棄て「西欧科学」に学ぶ姿勢に一変する。心の鎖国を解いたのである。さらに、イェール大学のレベルの高さに驚かされる。「彼らの学問の深遠さに触れ、日本の発展には理学の進行が不可欠」と。眼前の事実から、その意味、その本質を学び将来を見定める山川の研ぎ澄まされた感性、知性を感じさせる。○追いつき、追い越せの最前線技術の獲得は急がなければならない。明治の初期、約18年間で雇い入れた外国人は500人に近く、極めて高給。それを20年足らずのうちに日本人研究者・技術者がとって代わるのは一大事業であった。しかし、気鋭の外国人教師が日本人の進取の精神に火をつけた功績は大きい。「雇われ外国人教官の多くは非常に優秀だった。それは日本にとっての幸せだった」(有馬朗人元東大総長)。米国留学を終えた山川は、帰国するや東京開成学校の教授補、さらに東大の教授補に就任する。近代自然科学の成果を習得、消化した日本人みっちり学び、次いで米国の名門・イェール大学で山川は土木工学を学ぼうとする。近代国家への道を急ぐ明治政府は技術者を必要としていた。国費留学生である以上はその期待に応えなければならない。維新当初は途方もない高給で外国人の技術教官を招いて、指導を仰ぐほかなかった。早急に「自前の技術者」を養成することが喫緊の課題であった。特に国づくりに必要な土木、採鉱、製鉄、機械、建築、農業技術などの技術者の必要は限りなかった。山川が実学中の実学である土木工学を選択したのは、そうした国の切迫した事情があった。土木工学を学ぶには、その基礎となる物理学、そして「一にも数学、二にも数学、三にも数学」が必要と考えた山川は土木からさらに物理学に進む。当時の理学部には土木と物理学が「同居」していたのである。○攘夷意識の転換、心の鎖国解く「留学当初の私には、まだ攘夷の意識が残っていた」と山川は後に述懐しているが、その彼を驚嘆させたのは、欧米の科学水準の高さだった。まず、米国行きの船中で思い知らされる。日本から米国に向かう山○「坂の上の雲」を見つめるまた、黒田は女子にも留学の機会を与え、選抜された5人の中に健次郎の妹、捨松もいた。本名は咲子だが、米国10年の留学に当たって親が「捨てて待つ」捨松と改名。捨松は後に大山巌(のち陸軍大将元帥)の妻となり、その美貌と流ちょうな英語から鹿鳴館の花と呼ばれた。捨松は健次郎と共に会津若松城に籠城した体験から、生涯、看護活動の重要性を訴え、また、一緒に留学した津田梅子の「津田塾」創設に力を尽くした。一方、薩摩出身の大山はフランスで砲学を学び、会津若松城に砲弾を撃ち込む指揮をとった。「敵将」に嫁ぐ捨松に嫌悪の念をもつ会津出身者も多かったと思われるが、前原、黒田と同様に、山川兄妹も、過去より未来を、藩より国を、司馬遼太郎の言う「坂の上の雲」を見つめていたのだろう。○イェール大学に物理を学ぶ明治4年、「ジャパン号」で健次郎は米国に向かう。ニューヨーク近く、コネチカット州ノールウイッチの高校に入り、あえて他の留学生から離れ、米人の中で、まず英語を黒田清隆(北海道開拓使次官、後に総理大臣)によって米国留学生に選ばれる。健次郎の人生を決定づける三度目の幸運であった。○「黒田の勇力」と西郷、うなる黒田は函館五稜郭にたてこもり、最後の抵抗を試みる榎本武揚ら幕軍を攻撃する官軍の参謀だった。しかし、黒田は降伏した榎本らの助命に動く。「皇国全力をもって海外に当たるため、獄中の人材を断然挙用してほしい」と建議し、西郷隆盛は「黒田の勇力」とこれを褒め、政府は建議を受け入れた。榎本や大鳥圭介ら、後に国づくりに大いに働く人物である。黒田は北海道開拓の総責任者となった。若者を開拓の先進地・アメリカに留学させ、その技術を学ばせようと考えた。「書生を厳選して海外諸国に派遣すべきこと」を説き、その一人に「幕軍」に属した健次郎を留学生に選んだ。「将来の人材」として人物第一の選抜を行ったのである。仇敵の子弟であろうとも、これを積極的に生かし、チャンスを与える「共に新しい時代へ向かう心意気」が150年後の今日でも新鮮だ。