山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 18/28

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18また、熊本側が福岡の弱点として指摘した鉱山経営者の支援も大きかった。古河銅山の鉱毒事件で厳しい指弾を浴びていた古河家は工科大学(現在の工学部)の建物を寄付し、明治鉱業の安川敬一郎は山川に明治専門学校....

18また、熊本側が福岡の弱点として指摘した鉱山経営者の支援も大きかった。古河銅山の鉱毒事件で厳しい指弾を浴びていた古河家は工科大学(現在の工学部)の建物を寄付し、明治鉱業の安川敬一郎は山川に明治専門学校の創立を依頼、筑豊炭田の麻生家は後の理学部(昭和14年)設置に100万円寄付するなど積極的な貢献をしている。これは当時小倉に赴任していた森鴎外が福日紙に寄稿した「我をして九州の富人ならしめば」(明治32年9月26日)の一文が経営者の社会貢献への意識を揺り動かした、と思われる。こうして、振り返ると九州帝国大学の福岡設置は誘致運動、設立資金、用地、建物の提供など地元官民の「力」によるところが、大きかったことが分かる。○ロシア、討つべし山川は、東京、九州、京都の3帝大総長を務めた稀有の大学人だったが、総長を務めたいずれの大学もなお、幼年期であり、政府あるいは在野の勢力からの圧力を受けた。山川はこれを跳ね返し、大学の自治、学問の自由を守るための内部体制固めに努力した。州日日新聞)ことを強調するなど、泥仕合化した面もあったが、最終的には福岡に軍配が上がった。○市民運動の力福岡の勝利を決定づけたのは「民間の力」であった。隈本談話が報じられるや、市民の動きが活発化した。特に呉服商を営む渡辺與八郎(福博商工会議所会頭)は大学設置期成会を結成、誘致運動のため自己資金(5000円)を出して、その先頭に立った。與八郎は福岡が都市として発展するためには帝国大学の設置がぜひ必要という信念に近いものを持っていた。京都帝大設置から6年、明治36年京都帝大福岡医科大学の設置が決まった。さらに明治44年、九州帝大誘致(工科大学設置)のため、福岡医科大学隣接の旧柳町遊郭が「風紀上の問題」になると、與八郎は私有地4万7000坪を提供して、遊郭移転を成功させた。ており、さらに2大学を創立する力は政府にはなかった。九州、東北帝大設立は延期された。○福岡VS熊本、激しい誘致合戦明治32年1月、福岡日日新聞(西日本新聞の前身)に修猷館館長・隈本有尚の談話が掲載された。隈本は、1文部省に帝国大学増設(医科大学校)の方針があり、九州設置の可能性が高い2福岡か、熊本が有力候補になろうが、カギは建設経費の地元負担にある3誘致の成功は地元の熱意と運動にかかっている、と強調した。隈本の予言通り、福岡、熊本、そしてわが国の西洋医学導入に大きな役割を果たした長崎3県の誘致合戦となった。帝国議会での論議の中で政府は「寄付金の多少によって(設置場所)は左右されない」と答弁したが、設置のカギは、「地元の熱意」、つまり設置資金の地元負担金であった。福岡県会は同35年度予算で設置資金25万円(3カ年分割)、県立病院の敷地などの提供、同病院の建物、器具一切を寄付することを決めた。熊本側は、福岡は「悪漢無頼の徒炭坑に集まり風俗荒乱し、人情軽薄」の地であり、大学設置に向かない(九教官による「技術官僚」の育成は、猛スピードで進み、たちまち日本人技術者が外国人指導者にとって代わった。山川はⅩ線の実験、アーク灯の点灯など西洋技術の成果を間髪いれず取り入れ、実験を行い、理論と技術導入への糸口を創る。欧米に追いつき追い越すための最前線に山川は立っていたのだ。初代帝国大学物理学教授、わが国最初の理学博士となる。山川物理学の時代はまだ「出発点」であったが、続く、物理学の弟子に当たる長岡半太郎(大村市出身)の研究はすでに当時の世界レベルに伍している。驚異的な速さである。○アジアの覇を競う日清戦争に勝利しながら、三国干渉に抗するすべもなく日本は「臥薪嘗胆」を余儀なくされる。富国強兵路線に、一層の拍車を掛けなければならなくなった。特に「富国」のため、技術教育の重要性が増し、高等教育―大学の創設が急務となった。明治10(1877)年、東京大学、続いて同30年京都帝国大学(1897年)が創立された。さらに九州大学と東北大学の創立が予定されたが、巨額の戦費を費やした国家財政は逼迫し渡辺與八郎