山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 19/28

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19■九州帝国大学初代総長・山川健次郎に、山川は強く感じたに違いない。幼年期の帝国大学は、当時の総長が文相に「横滑り」するなど、人事面でも独立性は薄かったと思われる。政府などの外圧に屈せず、大学内におい....

19■九州帝国大学初代総長・山川健次郎に、山川は強く感じたに違いない。幼年期の帝国大学は、当時の総長が文相に「横滑り」するなど、人事面でも独立性は薄かったと思われる。政府などの外圧に屈せず、大学内においては自治の体制を確立しようとする山川への大学人の信頼は厚く、東京帝大の「初代公選総長」に選ばれる。「山川は国家主義者であり、また自由の精神をもった大学人であった」と故大内兵衛東大教授は述べている。○米国流・私立校重視の思想そのことは、国家が設置する帝国大学だけでなく「私立校」を重要視したことにも表れている。安川敬一郎(明治炭鉱経営者)の明治専門学ず」と一蹴。言論の自由を貫いた。九大総長を2年間務めた後、再び東大総長に帰る山川に留任運動が起こった。その嘆願書は言う。「(山川総長は)正しいと信ぜられた所は如何なる所に於いても断固として主張を決行される人物である」(要旨)(九州帝大学生・諸岡存)。しかし、文部省、東京帝大が山川の総長復帰を願い、政府も、玄洋社などの意向を受けた議会質問や元老の圧力をかわして山川再任を推し進めた。○総長公選制の導入と自治の確立東京帝大総長に復帰すると、また難題が突き付けられた。森戸事件である。森戸辰男助教授のクロポトキンに関する論文が無政府共産主義を鼓吹するものとして問題となり、罷免を迫られた。続いて、京都帝大で政府の「大学人事介入」に対し法学部教授全員がこれに抗して辞表を出す「沢柳事件」が起こると山川は、京都帝大総長兼任を要請され、事態の収拾に当たった。この中で、山川は「総長公選制」の導入に踏み切る。大学のトップをその大学の公選で選び、政府の人事介入を避けるためである。人事は大学自治の基本であることを、政府と大学が対立するたびて、対抗した。総長として対立の狭間に立たされた山川は、処分撤回にこぎ着けたところで、総長を辞任した。「公平無私で統括力の才ある」山川総長の留任運動、慰留が繰り返されたが、応じることはなかった。山川総長の毅然とした態度は、大学人の共感を呼んだ。九州帝国大学の設置が決定されるや、初代総長に山川の名前が挙がった。「切腹した者が再び、官立大学に就任することはない」、と山川は強く拒絶したが、自宅を訪問してまでの文相、東大総長の粘り強い説得に折れて、九大初代総長に就任する。しかし、間もなく九州大学総長言責事件と向き合うことになる。山川が九大に赴任する1年前、明治天皇の暗殺を企てたとする大逆事件で幸徳秋水ら無政府主義者、社会主義者が逮捕され翌年12人が死刑となった。行く手に黒い雲が現われ始めていた。久留米での陸軍大演習へ向かう明治天皇のお召列車が脱線したことから門司駅員が自殺。福岡・玄洋社がその駅員の顕彰碑を建てようと呼び掛けると、山川はあえて「反対」を福日紙に発表、玄洋社、九州日報社の総長排斥運動が激しく続いた。しかし山川は「卑見修正の必要を認め東京帝国大学総長に任命された(1901年)山川を待ち受けたものは、大学の自治をかけた政府との攻防であった。日本は日清戦争に勝利したものの、列強が中国をはじめアジアに覇を競う厳しい国際情勢の中にあった。特に、ロシアの南下政策に危機感を感じた国民の中に「ロシア討つべし」の声が大きくなりつつあった。東京帝国大学の戸水寛人教授ら七博士は桂太郎首相に直接意見書を突き付けた。「我軍力は彼と比較して尚些少の勝算」があり、このチャンスは「一歳内外を出ざるべし」と対露開戦論をぶち上げたのである。日露開戦、辛勝にようやくこぎ着ける(ポーツマス条約)と、七博士は領土の拡大、巨額の賠償金を求め、講和拒否の上奏文を出すなど、強硬論を展開して世論をあおるのだった。○大学の自治を守り、総長辞任業を煮やした桂内閣・文部省は、七博士のリーダー格の戸水教授の処分に出た。山川は東大総長として、処分は大学人の反発を招き、重大な事態となると、桂総理、久保田譲文相に警告したが、処分は強行され、大学教授会は「総辞職」表明をもっ明治専門学校(のちの九工大)創立者の安川敬一郎(手前)と山川健次郎(右)=九工大で