山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 20/28

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20視の米国型大学の体験があり、医科と工科の「統合」によって出発する九州帝国大学総長には「山川をおいて人なし」との評価があった。勿論、総合大学としては2科では不十分であり、農、理、法文などが必要なことは....

20視の米国型大学の体験があり、医科と工科の「統合」によって出発する九州帝国大学総長には「山川をおいて人なし」との評価があった。勿論、総合大学としては2科では不十分であり、農、理、法文などが必要なことは言うまでもなく、山川のあとを継いだ九大人は努力を重ね、次々と新学部を設立して、名実ともに「総合大学」へ成長してゆく。創立100年を迎えた九州大学は福岡市・元岡の伊都キャンパス正門横に、山川健次郎初代総長の胸像を建立した。台座には、彼が九大人に呼び掛けた言葉が刻まれている。「修養が広くなければ完全な士と云ふ可からず」と。九州大学は山川が心血を注いだ工学部(箱崎)キャンパスから、「伊都キャンパス」に移転、新しい学府・研究院制度を創設し、新時代に臨もうとしている。なかでも学部横断的な教育システム「21世紀プログラム」は注目されている。「修養を広く求める」山川思想の実践と言ってよいだろう。古武士の風貌を持つと言われた山川健次郎は、これからの「九大百年」を眼光鋭く見守るだろう。(敬称略)(西日本新聞社顧問、玉川孝道)と他の学校との違いである。この学風はわが大学生(九大生)がその本分を尽くしていることを証明しており、長く保存すべきものでありこの学風の維持に大学は出来るだけの努力をする」と述べた。ここに山川は、新たに出発する九州帝国大学の学風、原点を明確に示している、と言えるのではないか。○広い修養を持つ「完全な士」また、同じ訓示から読みとれるのは、「総合大学」を目指す山川の強い意思である。山川が初代総長に選ばれた背景には、東大時代に培った「理系」教育の在り方と「実学」重一高、二高などから合格した学生が東大、京大、九大に振り分けられて入学した。しかし、2回生は違っていた。彼らは、3大学に比例配分されることを拒否「こぞって、福岡医科大学に入り新しい大学をつくろう」と一高から入学してきた学生たちだった。名目上、「京都帝国大学福岡医科大学」とはいえ実質は新しい大学の出発であることを、教官、学生たちは共に強く意識していた。その進取の精神、自主独立、真理探究の心意気を知った山川は、総長就任の「訓示」(明治44年4月)の中で、日本の学生は「HOW」に関心を示すが、学問本来の問いである「WHY」を余り発しないというある英国人の言葉を引用し、その「弊風」の打破を訴えた。「これというのも明治の初め新知識を求めるに汲汲とし、あまり研究をする余地がなかったために一時的に起こった弊風の名残で、これは決して日本人の固有性ではないと思う」とし「我が医科大学生(九大)は新研究に極めて熱心であり学生が新研究をするのは東西両京の大学でもまれにみるところだ。このように学生の新研究が続々と公表されているのは、実に喜ばしい」。「この研究の精神の有無が、大学校(現九州工業大学)や根津嘉一郎(東武鉄道経営者)の武蔵高校設立に当たって、存分に「山川の教育観」を反映させる。私立重視は恐らく米国留学体験に基づくものだったろう。明治政府が財政難から留学生総引き上げを命じた時、学資に困った山川を助けたのは一人の米婦人の「篤志」であり、学んだイェール大学シェフィールド理学校は実業家シェフィールド氏の基金により運営されていた。教育は国家のみならず民間の力にもよらなければならない。当時の大学は欧州の影響を強く受けていたが、山川は「実学の米国流」をこれに加味したのである。なかでも、教官と学生の距離をなくすことによって、人間教育を実践しようとしたことは注目してよい。明治専門学校ではキャンパスの中に教官の宿舎を作り、学生が教官と膝突き合わせて学べるようにするなど今日から見ても極めてユニークな教育法、学校づくりを行っている。高い教壇から訓示を垂れるような一方通行の教育法を否定していたのである。○九大の学風、原点示す福岡医科大学の設置が決まると、工科大学での理科講義(大正5年)