山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 22/28

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22礎の上に、いくつもの大輪の花が開いた。東大理学部に入ると、ロビーでは、ニュートリノの観測に成功した小柴昌俊名誉教授のノーベル賞受賞記念展示が行われている。山川を「祖」とする物理学者の人脈には、山川の....

22礎の上に、いくつもの大輪の花が開いた。東大理学部に入ると、ロビーでは、ニュートリノの観測に成功した小柴昌俊名誉教授のノーベル賞受賞記念展示が行われている。山川を「祖」とする物理学者の人脈には、山川の愛弟子で、土星型原子模型の研究で日本の物理学を一躍世界レベルに押し上げた長岡半太郎をはじめ、湯川秀樹、朝永振一郎、小柴らノーベル賞受賞者が名を連ねる。ベルリン大学教授であったアインシュタインは大正11年12月、九州帝国大学を訪問している。記録によると、博士は図書館で、宮入貝などの標本や物理の古文書を一覧している。東京をはじめ各地の大学を訪れ、九大が最後の訪問地であった。九大訪問にあたって、桑木彧雄九大工学部教授が案内役に立っている。桑木に持ってこられた。―アメリカはイェール大学に留学していますね。有馬氏会津藩出身で、白虎隊に入り、会津若松城落城まで戦い、敗れ、大変な苦労をされた。1871年米国留学。イェール大学カレッジに入って、土木工学を学ばれた。当時は物理教室に土木工学の一部があった。物理学が原点の学問であり、理学と建築、土木など工学が明確に分離していなかった。つまり、当時は科学も工学技術も同時に学ぶ、山川先生も広く学ばれた。学問としての理学部は伝統的に哲学、数学、自然科学を含み、工学はカレッジであった。例えばハーバード大学は総合大学であり、同じボストンにMIT(マ―有馬さんが山川健次郎をお知りになったのはどのようなきっかけでしょうか。有馬氏私は浜松第一中学からここ武蔵高校に入学しました。第2代目校長が山川健次郎先生で、初めて知りました。東大に入って会議室の入り口に大きな肖像画があり、それが山川先生だった。日本の物理学の開祖。アメリカをモデルにして、日本サチュセッツ工科大学)を置いて、工科大学は別の存在として位置づけられている。―日本ではどうだったのでしょう。有馬氏山川先生が留学された時は、日本には大学は存在しない。明治10年、東京大学となった時、最初は法学、医学、理学で、工学は物理が持っていた。工学部が出来るのは10年後、帝国大学になってからで、工部省の大学統合、合併して工学部となる。帝国大学のもとに工学部を置いて、工業化の促進を図った。これが日本の「実学のはじめ」です。大学の設置は遅れたが、実学の重要性を認めた意義は非常に大きい、と思います。―そのプロセスで山川先生が果たされた役割は大きい。有馬氏米国流の土木工学をやりながら、物理を学ばれた山川先生は、まさに、先見の明があったというべきでしょう。御自身は土木工学を学ぶことによって、基礎の物理学と博士は面識があった。桑木は山川が九大総長となり、数学と物理の初代教授として明治専門学校(現九州工大)から迎えた英才で、明専からベルリン留学中、個人的に博士の自宅を訪問、知遇を得ていた。また訪日の船中では三宅速九大医学部教授と語り明かしたといわれている。(敬称略)米国の意欲を学び、「新鮮さと勢い」を日本へ武蔵学園園長有馬朗人氏INTERVIEW東大理学部前庭に建つ山川胸像