山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 23/28

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23■九州帝国大学初代総長・山川健次郎山川先生のX線発生実験東大、一高、三高が競争で、エックス線実験の重要性を認識された。東大の、初代の物理学教授に就任されるのが1879年。しかし、当時の日本人の実力は....

23■九州帝国大学初代総長・山川健次郎山川先生のX線発生実験東大、一高、三高が競争で、エックス線実験の重要性を認識された。東大の、初代の物理学教授に就任されるのが1879年。しかし、当時の日本人の実力は決して高くはない。山川先生が留学した米国自身が欧州に比べるとレベルは低かった。米国には、しかし、基礎科学をもっと育てようという意欲。現代科学、物理学をヨーロッパに追いつこうという進取の精神。そうした、米国の意欲を学び―「新鮮な気持ち」と「勢い」を日本に持ち込み教育された。そこに山川先生の功績がある。―山川先生の前は外国人教師に頼っていた。有馬氏イギリスの物理学者・ユーイングの存在が大きい。非常に優秀な学者を明治政府は高給で招いている。ユーイング先生はケンブリッジ大学教授、さらにスコットランドのエジンバラ大学の副学長(実質は学長)を歴任されている。ユーイング先生のように若く、一流の学者が日本に来てくれたことは、日本にとって幸せだったと思う。明治政府の意気込み、問題意識の高さが分かります。山川先生は英語でも研究、教育をされ、彼ら外国人教師と対等におやりになり、その進取の気性もあって、学問を志す若者の精神を刺激し、日本人に自信を持たせた。身をもって示されたのです。―山川先生の後、長岡半太郎など一気に世界一流の物理学者が躍りでてくる。有馬氏明治の「幸せ」は当時の日本国民の教育レベルが非常に高かったことだ。江戸時代の寺子屋教育を通じて、漢文を学び、庶民の多くが字が読めた。おそらく当時の識字率は世界一だったでしょう。藩校のレベルも高く向学心が強く、漢文のみならず蘭学を通じて西洋文明、学問の発達ぶりについては、もはや常識化していた。山川先生が敵方者であっても優秀な若者として留学生に選ばれたのも、そうした「進取の精神」が明治政府の中にあったのでしょう。山川先生のような気鋭の人が留学から情熱をもって帰国、東京大学、高等教育の体系を築いていった。山川先生が大学など日本の高等教育を作ろうという義務感、使命感があり、さらに「自分が作らねばならない」という情熱をもって成し遂げられた、そこに山川先生の功績があるのではないでしょうか。(物理学者、元東大総長、元文相)「山川健次郎生誕百五十年」記念事業(平成16年7月)として会津若松市で胸像の除幕が行われた。山川先生は九州帝大初代総長であり、東大初代物理学教授としてエックス線の発生実験に成功したことから、九大で放射線科に学んだ私はそのエックス線実験について講演をした。さらに、私の母校・豊津中学の前身小笠原藩豊津育徳館で会津藩(斗南藩)郡長正ら7人が学んだ。彼はある出来事から自刃した。明治4年5月に16歳であった。その年に山川先生は渡米、留学している。帰国後、わが国初の東京大学物理学教授になり、さらに、論文「大理石の電導性」で博士号を授けられている。7年後、レントゲン教授によりエックス線が発見され論文が公表された。この事はドイツ留学中の山川先生の愛弟子長岡半太郎により東京大学に伝えられた。インド洋経由船便で日本にもたらされたのは翌明治29年2月である。東京大学、第一高等学校、第三高等学校、3校によるエックス線発生実験の競争がはじまった。第一高等学校は水野敏之丞教授、山口鋭之助教授、東京大学は山川健次郎教授、鶴田賢次助教授らにより発生実験が成功し、早くも4月中旬にはその実験成功が相次いで報じられている。三高物理学・村岡範為馳教授は島津製作所との合同研究で10月10日に発生に成功したとされている。我が国においてエックス線の医学的応用の可能性についての報告は6月になされている。115年前の出来事である。(久留米記念病院長・吉本清一)