山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 25/28

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25■九州帝国大学初代総長・山川健次郎て我が九州帝大を主宰せしめたことは、由緒ある九州の天地を辱めるもの」として山川排斥に走った玄洋社も東大総長就任を阻止することはなかった。山川は決して反天皇制主義者で....

25■九州帝国大学初代総長・山川健次郎て我が九州帝大を主宰せしめたことは、由緒ある九州の天地を辱めるもの」として山川排斥に走った玄洋社も東大総長就任を阻止することはなかった。山川は決して反天皇制主義者ではなかった。教育界から退いた後、東宮(後の昭和天皇)御学問所評議員となっていることからも推察できる。明治中期、特に明治憲法が発布された明治22年以降は、教育勅語の制定と相まって「忠君愛国」が国民教育の柱として強調されるようになって行く。しかし山川においては「忠君」と「愛国」、つまり天皇主義と国家主義の二つの流れの中で、故大内兵衛氏(東大教授)が指摘するように、国家主義、国を強くする必要性、そのために大学もまた存在するという信念の持ち主であったと思われる。彼が創設に当たった明治専門学校において、軍事教練を導入し、東大総長時代も強制はしなかったものの同様の「教練」を行っている。時代は帝国主義の時代であり、西欧列強は中国をはじめアジアへの権益を求め、ロシアもまた満州、朝鮮半島をうかがっていた。そうした時代背景、さらに山川は歳幼くして白虎隊に入り、敗れた会津藩士、家族の「亡国駅員の自殺は同格の、陛下のために尽くした忠臣であるとの記事を掲載、山川談話への反論を加え、山川に直接会って「宜しく言を謝し自決すべきだ」と迫る者、警視庁に行き「機会を見て(責任者である文部大臣に)天誅を加えるからそのつもりでいてほしい」などと言う者さえ現われてきた。過去に森有礼文相暗殺、大隈重信外相暗殺未遂事件(明治22年10月)なども起こっており、明治45年の帝国議会の貴族院、衆議院などでも山川問題で文相追及の質問が行われ、問題化していった。しかし、山川は「我が帝国はすでに世界において一等国の班に列せる以上は職員の自殺を目するに必ずしも忠貞をもってすべからず」として「卑見修正をすべき必要を認め申さず」と断固として主張を変えず、撤回、譲歩もしなかった。その態度が山川排斥運動を進めた一人をして「山川氏が自己の主張を最後まで翻さず自説を保持せられた」高潔の士であり「語るに足る人物である」と尊敬の念を覚えたと述懐させている。山川言責問題は、山川の九州帝国大学総長から、二度目の東京帝国大学総長への転任で終息する。「斯くのごとき危険思想を懐ける総長をし一般からの寄付が寄せられた。これに対して、九州帝大総長、山川健次郎は、駅員の引責自殺には「賛成できない」、建碑計画には「反対」という意見を福岡日日新聞に発表した(明治44年12月2日付け)。「士たる者は自殺して申し訳をなすべき場合があることを認めるものですが、しかし今回の門司駅員の行為に対しては賛成しません。固より死者の心事に対しては同情すべきでありますが、彼の事件が生命を捨てんならん程の重大なことであったでしょうか。彼の行為を賞賛し或いは碑を建てて之を表彰するなど云うような事に至っては、どうあっても同意する訳には行かないのです」(要旨)玄洋社と九州日報は、直ちに山川健次郎に矛先を向ける。翌3日、九州日報は、「学者に不似合いなる説」との横地歩兵第24連隊長の談話、さらに日露戦争での旅順港で戦死した「軍神広瀬中佐」と「御召列車脱線、門司駅の大失態」「大不敬」「鉄道院の大失態」などと報道。門司駅構内主任だった駅員はその夜、トンネル内で鉄道自殺した。血染めの遺書が残されていたが「幹部に申し訳のため、自殺す」とあった。明治天皇は「金三百円を遺族に賜ひて、之をあわれみたまふ」たという。この恩賜金に合わせ、九州日報は「我玄洋社はこの大いなる意義を有する職員の一死を永久に記念」するため建碑を呼び掛け、これに応じてのちの昭和天皇の教育のための東宮御学問所評議員に就任した山川(前列右から4人目が山川)