山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 4/28

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4学生諸子、我輩今回本大学の総長に任ぜられたるに依り、本日始めて諸子と此処に会見するは、我輩が最も満悦する所であるが、爰に就任の始めに於て一言以て諸子に訓示せんと思ふ。今我日本に四個の帝国大学があるが....

4学生諸子、我輩今回本大学の総長に任ぜられたるに依り、本日始めて諸子と此処に会見するは、我輩が最も満悦する所であるが、爰に就任の始めに於て一言以て諸子に訓示せんと思ふ。今我日本に四個の帝国大学があるが、其の学生の総数は思ふに五千以内であろふ。然らば、我が帝国の人口を五千万とすると、人口壱万につき僅に壱人の帝国大学々生を出だす割合で、洵に少数と云つて宜いのである。斯く多くの人の内より選抜されて帝国大学の学生と為り、国内無数の青年者から羨望される諸子の光栄は、多大のものと云はんければならん。諸子は国内一般の青年から手本とし之に習はんとされてあるのである。帝国人民は、帝国の未来を大学生に托せんと期待してあるのである。朝と云はず野と云はず、凡ての要職要務は大学生の来つて満たさん事を待つて居るのである。之を以て見れば、光栄の伴ふ所とは云いながら、諸子の責任は重且大と云はんければならん。諸子は丁年以上の人で、然も高等なる普通教育を受けた人であるから、右申す重大なる責任を負ふて居ることは、早に自覚されて居ることは、我輩が深く信じて居る所である。故に細かなことは、此処に云ふ必要がない。只諸子の重大なる責任を負ふて居るものは、深く自重せねばならんと思ふが、是は能く諸子の考慮せらるべきことであると思ふ。斯く重大なる責任を持つて居る諸子の事であるから、己れの責任を忘れ、己れの位置を顧みず、学生にあるまじき所行などは決してあるまいとは考ふるが、万ヶ一、右様な場合には、大学は止み得ず相当の処分を為すのに躊躇せん。勿論大学は学生を見ること其子弟の如くではあるが、万止み得ん場合には、果断の処置に出づるのは拠ろ無き次第である。諸子に於ては、深く自分の立場を考へられたなら、心得違のないことは、我輩の信ずる所であるが、能く??考慮せらるゝことを希望するのである。現時学生の学風は、只単に教授の講義にのみ依頼して、自ら研究する精神に乏い感があるかの様に考へられる。従て其の講義を充分に咀嚼せんから、唯教員の請売をする事となり、又従て学問を応用する場合に大に差支を生じ、所謂生半可の学問となるのである。或る英国人が嘗て我輩に語つた事がある。「日本の学生は「ハウ」と云ふ事は深く注意するが「ホワイ」と云ふ問を余り発せん」と。英国の学生だからと云つて、そふ能いのばかりないは勿論であるが、右の語は余程現時学生の弊風を穿ち得て居ると思はれる。事の斯く??あると云ふ事を知る事を努むるに汲々たるの結果、遂に何故に其の事は斯く??あるかと云ふ事の研究を等閑にすると云ふ風は、現時の学生に対する免るべからざる非難かと思はれる。是と云ふも、明治の始め、新知識を求むるに汲々たるの余り、深く是を研究する余地のなかつた為に、一時起つた弊風の名残で、是が決して我国人の固有性ではないことゝ思ふ。勿論、諸子に在つては斯様な弊風がないことゝ思はれる。と云ふのは、後藤学長の話により、又学友会の雑誌を見ると、我医科大学学生の新研究をすることには極めて熱心であることが判るのである。学生の新研究をするのは、東西両京の大学でも稀れに見る所であるが、斯く我が学生の新研究の結果が陸続公表せられるのは、実に悦ばしき事である。是で見るも我が学生は只単に教授の講義にのみ依頼するものでなく、充分に学問研究に従事するものであつて、前述べた弊風のないことが判ると思ふ。此研究精神の有無が、即ち大学と他の学校との差のあるところであるから、此学風は我が大学生が其の本分を尽して居ることを証明するものであるによつて、永く保存せんければならん所のものである。又此学風の維持には、大学に於ては出来得る限りの助力を与ふる考である。又現時青年学生の通弊の一つは、試験学問をすることである。学問の為めに学問をせんで、試験に通過する為めに学問をする。どんな大切なことでも、試験に関係がないと少しも顧みない。此弊風は凡ての階級の学生間に存在するかと思はれるが、「修養が広くなければ完全な士と云ふ可からず」山川総長学生へ初訓示(明治44年4月22日)