山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 5/28

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5来んが、或は相容れぬことがあるかも知れんのである。斯様なわけであるから、何事にも趣味を持てと諸子に請求するではないが、なるべく趣味を多方面に持つことを諸子に勧むるのである。多方面に趣味ある知識ある人....

5来んが、或は相容れぬことがあるかも知れんのである。斯様なわけであるから、何事にも趣味を持てと諸子に請求するではないが、なるべく趣味を多方面に持つことを諸子に勧むるのである。多方面に趣味ある知識ある人を養成すると云ふのが綜合大学の設置せらるゝ所以であり、同じ理由に依つて、もし寄宿舎が出来たら――寄宿舎は是非急に作りたいと思ふ――其中に於ては各分科の学生をばなるべく雑居せしめたいと思ふ。己れの従事して居る学問以外の学問を研究する人と接すると、自然に他方面に趣味を起こし知識を増す利益があり、従て完全な士を養成することが出来ると思ふからである。終りに一言し置きたいは、兎角壮年の際には自己の体を大切にすることを怠り勝のものであるが、諸子は其辺の事は充分承知して居ることゝ思ふが、若き時に相当の注意を為んと、年を取つて後悔する時が来る。医学をして居る諸子に衛生の説法は甚だおこがましい事ではあるが、自分の経験上老婆心止み難く、爰に一言して今日の話を終ることゝする。(註)原文のカタカナ文をひらがな文に改め、句読点を付した。また、明らかな誤字は訂正し、濁点を加え、漢字をかなに改めるなどしたところがある。点に於ては、我が日本人は西洋人に比すると大に劣るやの感があると思ふ。現在日本に住する西洋人、例令ば大学などの雇教師などを見るに、左迄ゑらい人と思はれん人でも、其専門以外の事に対し知識を有して居るは日本人の遠く及ぶ所でないのが普通である。是について其の原因を尋ねたなら種々あるであらふが、兎も角も事実は右の通りである。今日本人の内でも、或る専門に関しては立派な学者であるが、多くの場合に於て其の専門以外の事に関しては其の知識が非常に幼稚である。医学者には丸で法律の知識がない、法律家は全く理学を知らん、理学者は文学に趣味を持たんと云ふ様な有様である。夫れのみならず、己れの専門以外の知識が幼稚であるのを、啻に恥ぢんのみならず、反て之を自慢する人などが往々ある。勿論人の性質によることであるから、凡ての事に趣味を持てと云ふは無理なことである。彼の有名な「ダルウイン」が云つて居る事である、自分は若いときには詩と云ふものに趣味を持つて居つたが、年を取るに従て詩に対する趣味を失つた、或は科学の研究と詩に対する趣味とは互に相容れざるものであるまいか。成程厳確なる科学と婉曲なる詩とは一概に云ふ事は出も、仏郎西人に似て居るのではあるまいか。即ち試験に重きを置き過ぎるではあるまいか。諸子は勿論前申す如く研究学問に熱心なものであるから、試験などに目をくれず学問の為めに学問せらるゝは、我が輩の信ずる所であるが、猶注意されん事を希望するのである。又有名な話であるが、或る英国人が、完全な人間はEverything ofSomethingを知り、Something ofEverythingを知らんければならん、即ち或ることの全部を知り、又凡てのことの一班を知つて居らんければならんと云つたことがある。別辞で申せば、己が専門の学問の蘊奥を極め、合せて他の凡てのことに対して一応の知識を有して居らんで、即ち修養が広くなければ完全な士と云ふ可からずと云ふ事である。是は甚だ尤なことであると思はれる。往昔と違ひ今は学問の進歩によつて専門でなければ世に立つことが出来んは勿論であるが、余り専門に走るの弊は、他の事には少しも趣味を持たん、又従て知識を有せん、其結果眼界の誠に狭い人間になるのである。是が又自分の専門に迄影響を及ぼし、自分の専門の学科に於ても問題を達観して要点に着眼することが出来んことゝなる恐れがあるのである。此の是は前述べた研究学問の正反対である。斯る有様になつたのは、単り学生の罪のみでなく、制度も亦其の責の一班を負はんければならんのである。或る本で見ることであるが、人を英国人に紹介すると、英国人の第一に胸に浮ぶ疑問は、如何なる人であるかと云ふことである。即ち其の人の人格如何が念頭に起る。又独乙人に紹介すると、独乙人の第一に胸に浮ぶ疑問は、如何なる知識を有する人であるかと云ふことである。即ち其の人の学問如何が念頭に起る。又仏郎西人に紹介すると、仏郎西人の第一に胸に浮ぶ疑問は、如何なる試験を通過した人であるかと云ふことである。即ち其の人の資格如何が念頭に起る。又亜米利加人に紹介すると、亜米利加人の第一に胸に浮ぶ疑問は、如何なる事を為し得る人であるかと云ふことである。即ち其の人の才幹如何が念頭に起る。則ち英人は人格に、独乙人は学問に、仏人は資格に、亜米利加人は才幹に重きを置くことが普通性であると書いてあつた。勿論右様に単簡に国民を批評する場合は、必しも悉く真理であると断言は出来んが、其の間に多少の真理の含まれてあるは、疑のない事と思ふ。我が日本人は、独乙人よりも英国人よりも亜米利加人より