山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 7/28

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7■九州帝国大学初代総長・山川健次郎史を持っている。しかしながら、ここで留意すべきは、九州帝大の法令上の創立は、あくまでも明治44年1月の勅令施行時にあるという点である。創立記念行事も昭和11(1936)....

7■九州帝国大学初代総長・山川健次郎史を持っている。しかしながら、ここで留意すべきは、九州帝大の法令上の創立は、あくまでも明治44年1月の勅令施行時にあるという点である。創立記念行事も昭和11(1936)年の25周年以来、全てこの時から起算して行われた。九州帝大・九大は、その創立年を実質上の開設、つまり福岡医科大学の設置より8年引き下げて設定するという全国でも珍しい大学であるが、創立に関してこのようなズレが生じたのは、同大学が既設の医科と、新設の工科の統合によって始まったという特異な事情による。その理由は、後述する明治19(1886)年制定の帝国大学令の規定にあった。「官立」で「総合」大学明治?大正中期明治〜大正中期の大学・高等教育制度を考える場合、我が国の高等教育機関が大学と専門学校・実業専門学校という二つの異なるセクターから構成されていたという事実が重要である。このうち大学とは、明治19年の帝国大学令で東京に大学が置かれて以降、京都、東北、九州等に設置された帝大のことを意味していた。大学=帝大は官立でなければならず、それは二つ以上の分科大学(学部)を持つ、いわゆる「総合」大学でなければならなかった。そこへの入学は、中学校→高等学校→帝大という、いわゆる「正系」(高校を経る)コースが基本であった。一方、専門学校・実業専門学校は、明治36(1903)年の専門学校令に規定された学校で、我が国の職業専門教育を実質的に担ってきた機関である。現在の私立大学や官立単科大学の前身校が、当初は専門学校・実業専門学校として位置づけられていた。一高生、大挙して、福岡医科大学へ明治33(1900)年、我が国の義務教育就学率は80パーセントを超え、その結果、政府も必然的に高等教育機関の増設を考えるようになった。このようなとき、九州に大学設置の可能性あり≠ニの情報がもたらされると、福岡、熊本、長崎の各県間に、激しい大学誘致運動が起こった。福岡県会は、明治32年11月、九大設置に関する建議を行ったが、以後毎年のように県立病院の国庫献納や寄付金を内容とする建議を可決、福岡市も大学設置期成会を組織した。一方、熊本、長崎県でも誘致活動が行われ、特に第五高等学校や陸軍第6師団を有する熊本では、積極的な運動が展開された。しかし政府は、財政問題や地理的条件、県立福岡病院の存在等から、医科大学のみを置くことにし、明治36年3月、勅令第54号をもって福岡医科大学が開設された。大学名は「九州帝国大学医科大学」という意見もあったが、前述のように単科大学は認められなかったので、ひとまず京都帝大に第二医科大学を設置、それを福岡に置くことにしたのである。福岡医科大学には東京の一高生らが大挙して進学し、九州帝大の医科となるまでに、計4回合計329名の卒業生を世に送り出した。工科大学、6学科でスタート日露戦後、高等教育機関増設の要求はますます強くなった。政府も明治39(1906)年末、翌年度の臨時費として東北帝大理科、札幌の農科とともに、福岡に工科大学を設置する計画を立てたが、財政難から実現できなかった。ところが、当時足尾銅山鉱毒事件で世論の批判を浴びていた古河家が、世論緩和策として教育事業への寄付を行うことにし、図らずも右の3大学案が実現するこ山川健次郎書簡(断簡)「外国往復」、「英文一覧」の編集や、医工両科の事務を担当する書記の任用について、山川が自ら手配しようとした様子がうかがえる