山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 8/28

電子ブックを開く

このページは 山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 の電子ブックに掲載されている8ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
工科大学正面(大正3年)写真中央の建物は、大正3年3月竣工の工科大学本館。その左隣は講堂。正門の左に門衛所が見えるが、この建物は大正13年の法文学部創設に際し移築され、現在は向かって右側に建っている大学....

工科大学正面(大正3年)写真中央の建物は、大正3年3月竣工の工科大学本館。その左隣は講堂。正門の左に門衛所が見えるが、この建物は大正13年の法文学部創設に際し移築され、現在は向かって右側に建っている大学は、明治末年には大学としてのの熱心な誘致運動で設置された医科治10年代初頭に淵源を持ち、30年代就任時での要点をまとめると、1明てきたが、ここで改めて山川の総長以上、九州帝大創立の経緯等をみ初代総長山川健次郎の登場れた。4日、第1回生採鉱、冶金の6学科からなり、83名の入学が許可さ10月大学は、土木、機械、電気、応用化学、を経て一段落する。創立当初の工科郎が就任するという、複雑な手続き日、初代総長に元東大総長山川健次るとともに(勅令第45号)、4月1を九州帝大の医科大学に所属換えす次いで同年3月31日、福岡医科大学大学開設を公示(文部省令第36号)、れたのち、翌年1月1日からの工科第448号。翌年1月1日施行)さは23日、、ま九ず州明帝治大の43(1910)設置が公布(年勅令12月大の創立がなされるが、その経緯こうして、冒頭に述べた九州帝学の設立が確定した。(写真上段)。題であった財政難は解決し、工科大ることにしたので、ここに最大の問25万円と土地6万坪の代金を寄付すととなった。また、福岡県会も金1日付で文部大臣小松原英太郎よりの、22日には学生への「訓示」を行い、4月8日来福、19日には教授職員へ京を求め、新大学の大綱を審議した。原淳蔵、医科大学長後藤元之助に上任を内諾すると、早速工科大学長中川は明治44年1月、九大総長への就右に辞書風に略伝を記したが、山時は京大総長も兼任した。任後は二度目の東大総長に就き、一を持った教育者でもあった。九大退経験から、生涯強い愛国心と尚武心(理学博士)となったが、〝亡国〟のて知られ、我が国最初の博士の一人件で辞任)等を務めた。人格者とし大教授、同総長(いわゆる七博士事に留学、物理学を修め、帰国後は東話を持つ。苦学して米イェール大学を除隊となり、生き残ったという逸長との戦いでは、年少のため白虎隊~大正2年5月)。旧会津藩士で薩総裁、九州帝大総長(明治44年4月学校(以下、明専。現九州工業大学)1年)。元東京帝大総長、明治専門山川健次郎(1854年~193対してなされたものである)。掲4頁の山川訓示は、医科大学生にいなかった、ということになろう(前科大学ではあったが、まだ入学生も大としての設置では医科より先の工基礎を創り上げていた、2一方、九8