山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学

山川健次郎初代総長パンフ - 九州大学 page 9/28

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■九州帝国大学初代総長・山川健次郎山川健次郎宛桑木摎Y書簡(明治44年8月)九州帝大工科大学での数学、力学教育について恩師山川に相談したもの。数学、力学教育の内容を知りうる興味深い史料であるいる。らしい....

■九州帝国大学初代総長・山川健次郎山川健次郎宛桑木摎Y書簡(明治44年8月)九州帝大工科大学での数学、力学教育について恩師山川に相談したもの。数学、力学教育の内容を知りうる興味深い史料であるいる。らしい史料(7頁上段)も残されて山川自身が大学書記の手配を行ったに対して報告を行ったものである。が(上段)、それは恩師・物理学者摎Yは、山川宛に書状を認めているら九大への出講が決まっていた桑木与った。東大時代の弟子で、明専かなく、より具体的な創設の相談にもある。山川はまた、事務処理だけでが開かれたのは、5月4日のことで言うまでもない。九大最初の評議会総長としての経験が役立ったことは程を制定していった。その際、東大大学長委任事項」「通則」等の諸規規程」「医科大学長委任事項」「工科けた後は、「評議員互選手続」「処務「九州帝国大学総長職務規程」を受大正2年6月、九州帝大学生の諸岡存が山川の東大転任に対して、前東大総長濱尾新、山川、文部大臣奥田義人に宛てた質問状(パンフレット)も当然ながら先輩はいなかった。こは東大出身の若手が多く、学生達に科大学は文字通りの新設で、教授に充実にあったことは間違いない。工医科のさらなる発展と、工科の整備・九大総長山川の目指したものが、川である。病院地区の恵愛団を創設したのも山収の諸論説等を参照)。現在も続くに行った(『男爵山川先生遺稿』所た地元新聞への談話や講演を積極的〈以下、『五十年史』〉131頁)。まかった」(『九州大学五十年史通史』これを「愛することまたきわめて深の大成を激励」し、学生に対しては山川は若手教官に対しては「研究医科と工科の「研究の大成」目指すんだ山川に見られるのは、むしろ極争に敗れ、米国に留学、物理学を学変わったものではなかった。会津戦ような考えは明治人としては特別に全くその通りである。しかし、彼の代からは勿論、同時代的に見ても、る見方がある。確かに彼の言説は後ところで、山川を国家主義者と見「国家主義」と合理精神と付記するに留めておきたい。が伝わるが、これについても事実を上)。学生の山川に対する強い思いの間に留任運動が起こっている(左の辞任を巡っては、学内、特に学生した(『五十年史』133頁)。山川の情勢を考え、ついに転任を内諾」は在任のつもりであったが、「四囲持ち込まれた。彼は九大の完成まで山川に二度目の東大総長就任の話がう。なお、同事件からしばらくして、133頁)ことだけを特記しておこたる態度を堅持した」(『五十年史』いが、山川は持論を変えず「毅然定されているのでここでは詳述しな勃発した。これについ駅員自殺」事件(明治ては44年別稿11月が)予がたが、そこに突然、いわゆる「門司発に万全を期すべく活動を行っていのような状況の中、山川は九大の出9